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生涯旅人、賀曽利隆の旅日記 60代編

アドレス日本一周 east[46]

投稿日:2013年9月4日

蟹とたはむる

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2008年11月28日

 函館の歴史探訪を終えると、山麓駅からロープウェーで函館のシンボルの函館山に登った。山頂からの展望は絶景だ。
 函館の市街地を一望する。足元には元町を中心とする西部地区の街並みを見下ろす。駅前の繁華街大門にはビルが建ち並んでいる。函館港がよく見える。目をすこし遠くにやると、緑に包まれた五稜郭公園が見える。電停の五稜郭公園前周辺は新興の繁華街で、やはりビルが建ち並んでいる。
 函館の街並みは横津岳の方に向かって拡大している。
 横津岳の右肩越しには、駒ケ岳が見えている。
 函館山の標高は334メートルでしかないが、海からそそりたっているので、数字以上の高さに感じられる。
 函館山は牛が寝そべったような形をしているところから臥牛山とも呼ばれているが、ロープウェーの山頂駅のある御殿山をはじめ、薬師山、つつじ山など全部で13の山々の総称。その最高峰が標高334メートルの御殿山になる。
 函館山を下ると函館山をバックにしてそびえたつ高田屋嘉兵衛の銅像を見、函館山の山裾にある谷地頭温泉の市営湯(入浴料420円)に入り、函館山が海に落ちる立待岬へ。
 海沿いの小道を行く。
 右手には市街地を見下ろすように、函館山がそびえている。
 一方通行の小道の両側は墓地になっている。その一角に、石川啄木一族の墓がある。そこには啄木夫妻と両親、3人の子供たちが葬られている。
「東海の 小島の磯の白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる」
 と、立待岬で歌ったとされる啄木の代表作が墓碑の前面に刻まれている。
 また、後面には、
「おれは死ぬ時は函館に行って死ぬ…」
 と、函館在住の歌人、宮崎郁雨にあてた書簡の一部が刻まれている。
 啄木は明治40年5月から9月まで函館に住んだということだが、わずか27年という短い生涯の中でも、その期間が一番幸せな時期であったらしい。
 函館山が断崖となって海に落ちる立待岬に立つと、津軽海峡をはさんで正面には下北半島が、右手には津軽半島が見える。目を函館の市街地の方に移すと、弓なりに湾曲した海岸線が汐首岬へと延びている。
 岬の名前はアイヌ語の「ピウシ」(岩の上で魚を待ち、ヤスで捕る場所の意味)に由来するという。
 岬付近には寛政年間(1789年〜1801年)に台場が築かれ、明治になると要塞地帯になり、第2次大戦の終了後まで一般人の立ち入りは禁止されていた。立待岬はそんな歴史を持つ日本の北方警備の要衝の地であった。

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函館山山頂からの眺め
高田屋嘉兵衛の銅像


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谷地頭温泉の市営湯
石川啄木一族の墓


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津軽海峡の立待岬
立待岬の断崖


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